制作経緯

オペラ「光太夫」の再演に向けて

オペラ歌手であった青木英子(1919-2010)は、音楽による国際交流を願い、1970年代にオペラ「光太夫」の制作に着手しました。ストーリーは、今から約200年前、回船の船頭であった大黒屋光太夫がロシアに漂着してから帰国するまでの10年間を描いたもので、桂川甫周が史実を基に書いた「北搓聞略」に着想を得ています。作曲は、モスクワ音楽院にてアラム・ハチャトリアンの下で研鑽を積んだファルハング・フセイノフ(1948-2010)に委嘱しました。アゼルバイジャン出身で、新進気鋭の作曲家として注目されていたフセイノフの、美しく胸を打つメロディが作品全体を覆っています。

オペラ「光太夫」は、旧ソ連の社会主義体制崩壊という変化によって制作が中断されたこともあり、構想から約20年経過した1993年9月7日に、オーチャード・ホール(東京)にて初演を果たしました。朝比奈千足の指揮の下、勝部太(バリトン)を主役とし、当時キーロフ歌劇場のワレンチナ・ツィディーボワ(ソプラノ)を招いての上演でした。

本作品の主人公である光太夫は、ロシアで厳しい自然と闘い、言葉の壁と文化の違いを乗り越え、国家権力に翻弄されながらもようやく日本に帰国しました。鎖国体制にあった江戸幕府は、光太夫を快く受け入れてはくれませんでしたが、彼のロシアでの見聞・経験は貴重な情報として記録され、これらの事実は現代の私たちの知るところとなります。しかしこの記録は、史実としての光太夫の苦難だけでなく、その苦難の中で深められた交流の物語とみることもできるでしょう。私たちは、ロシア人に助けられ、時に助け合う中で育んだ光太夫の友情が格別の光を放っていることに気づかされます。作曲者フセイノフもまた、生地アゼルバイジャンの民族紛争から家族を守るためにトルコへの脱出を余儀なくされるという、時代に翻弄された人生を送りました。 現代では以前に比べより自由に外国との行き来が出来るようになりましたが、民族間の紛争や国家間の緊張関係など、複雑な問題を抱えています。だからといって、人と人の交流が途絶えてはいけません。オペラ「光太夫」を通じて様々な人が交わり、多くの人にこのオペラの持つメッセージを共有していただけるよう、切に願っています。

作曲家ファルハンク・フセイノフの経歴

1949年7月16日アゼルバイジャン共和国バクーで生まれ、バクー音楽院付属特別音楽学校卒業後、アゼルバイジャン音楽院及びモスクワ音楽院ヴァイオリン科・作曲科を卒業。作曲をカラ・カラエフ、アラム・ハチャトリアン、ヴァオリンをレオニード・コーガン、カープ・ドンバエフの各氏に師事。

  1972年ヘルベルト・フォン・カラヤン国際コンクールにてモスクワ音楽院室内楽アンサンブルメンバーとして参加、優勝。1975年から1978年までモスクワ音楽院に於いてレオニード・コーガン氏のアシスタントとして働く。1978年から1992年までバクーにてアゼルバイジャン音楽院ヴァイオリン教師となる。1992年よりトルコのアダナ市チュクロア大学弦楽器科の教授となり2010年没。

  他にヴァイオリンのソロ並びに弦楽四重奏のメンバーとして旧ソビエト連邦圏、イスラエル、オーストリア等でコンサート活動をする。

作品歴

  • ヴァイオリンのための室内楽、ピアノ、チェロ作品集
  • 弦楽四重奏2曲
  • ソプラノと弦楽四重奏2曲
  • バスと11の楽器のためのカンタータ
  • 管弦楽とコーラスのためのカンタータ
  • 管楽器を弦楽器のためのセレナーデ
  • アムガ・アリ(アゼルバイジャン共和国出身の偉大な歌手)の誕生180年記念コンサートのためのオーボエと室内楽曲
  • オペラ「星の王子様」
  • オペラ「光太夫」
  • 旧ソビエト連邦とギリシャ合作映画「ヤニス・リッオス」の音楽担当
  • その他歌曲、合唱曲多数